もう一つのキモは、いつでも、これはやめられるということ。この閉じを閉じにしないことも(ある程度は)できること。つまり、中断できるということ。
中断できるなら閉じてないと言われてしまうかもしれないが。
もう一つのキモは、いつでも、これはやめられるということ。この閉じを閉じにしないことも(ある程度は)できること。つまり、中断できるということ。
中断できるなら閉じてないと言われてしまうかもしれないが。
記事の数はとうに100を超えた。けれども、今日も僕は、芸もなく同じ主題を繰り返そうと思う。
ところで、このブログに主題なんてあっただろうか。自分ではあるつもりだけれど「それ」はまだ文章として現れていない。むしろ、「それ」を主題とできるのか、が当初から考えることだ。
そうすると、僕は何ヶ月も同じところで停滞していたことになる。もともと景色に乏しいかも知らないけれど、同じ景色と気分ばかり繰り返し現れる。
改めてこの場を、変化しやすい「気分」から、取り返す必要がある。
整理すると、僕は停滞しているのではなく、停滞させられている。つまり、ここで立ち止まることは「それ」の事柄上、求められている。また、停滞させられているということは、停滞させられることを選んだという意味でもある。
求めているのは、過不足なく書くことの、次善の策だ。出切らなかった「言」葉が閉じ込められている場所は、この先どうなるのか。気持ちの上では、いつも引きこもっている(そうではないが……)が、本当に閉じ込められているのか。
今は読む時期だと思う。闇雲に読まずに済む状態にあるのだから。
悪いことは簡単に書けるけれど、よいことを書くのは難しい。
ある友人は、良いとは心地よいことだ、と言っていた。全ての人にとって心地よいことは良いことだ。確かに、と思う。
それなら、良いことを書きたいと思っているならば、心地よかったことを書けばいいだろうか。試してみてもうまく行かない。書かれた心地よいことは、心地よいこととは違い、良いことにはならなかった。
良いについて理解するために、心地よさに訴えることは、別の仕方でもうまくいかなかった。他人の心地よいと思う出来事を把握できないから、良いについての理解を充実させられない。世間には、そんな馬鹿なことが心地よいのか?と思うことが沢山ある。理屈の上では心地よさは良いことだけれど、感覚的にそれが受け付けられなくなる。
それなら、何を書くと良いことを書いたことになるだろうか。ためになることか?勇気づける言葉か?面白いことか?
僕が思っているのは、長く丁寧に書くことだ。でも息が続かないので、ブログはここでおしまい。
中学一年生くらいの時から、休日にふらふらと出歩くようになった。受験勉強をして入学したものの部活も授業も楽しめていなかった。特に英語の授業はつまらなかった。英語ができるようになることが、ものを考えられるようになることに寄与するとは、その時は思っていなかった。
何人かの友達とはよく一緒にいて、大勢が集まった時の、わいわいした感じで毎日過ごしていた。
今も夜に出歩く習慣がある。家の近所を歩いているけど、近頃は暗い道が怖くなった。夜で歩いている人はほとんどいないけれど、人とすれ違う時は緊張が走る。夜道は怖いと思えば怖い。
大学生の時は、友達とよく散歩をしてた。2号線沿いから灘の美術館の前を通って、三宮に寄り道してからハーバーランドまで歩いた。途中でよったコンビニをでてから、友達は自分は優しい人間なのだと言った。そうなのかと思った。寒そうにしていたからコートを貸した。酒を飲んでいたから冬でも温かった。
いちいち、あの時はどうだった、あの時はどうだった、って区切るのはおかしい。
今年の頭くらいに大学の同級生と久しぶりに会って西葛西から東京あたりまで歩いた、背が高すぎず、低すぎずのいい感じの街並みの中を歩く、落ち着いた散歩だった。
ふとその時の話したことを思い出した。途中で立ち寄った砂町銀座の商店街のカフェでチャイを飲みながら、勉強の話から家族とか恋愛についての話しをした。そのとき僕は、今思えばずいぶん偉そうだったけど、思い込みの力について話した気がする。適切に妄想することが大切みたいな。正直、その時の気分や話の筋道を今の僕にも教えて欲しい。
思い込みは二重の意味で危険だ。一方では、思い込みに過ぎないことを現実以上に現実化し、とらわれ閉じこもってしまう。他方では、全てに思い込みの可能性がともない、現実の底が抜けてしまう。
それでも、その時は、鷹揚な精神と針に糸を通す精神で、適切な妄想について話すことができたんだろう。
気づいたらまわりくどい言い方をしている。シンプルに言わないといけない時も、まわりくどくなる。自分のなかの何が邪魔をしてそうなるんだろうと思う。
この数週間、仕事が終わった感じを感じられてない。明確な区切りがないからぼーっとした気分になる。
仕事中に、忙しいのにごめんとか、大変でしょとか、あまり申し訳ない風に言わないでほしい。そんな風に話しかけられるような立場じゃない。衆人環境でそうやってやることが僕の不利益になるってなんで分からないのか。
生活の中に照準を合わせられる出来事がない。だから、これ以上は出せない。でも側から見たら怠けてるのかもしれない。
今朝見た夢は面白かった気がする。