友人
大学の友達がいる。別に仲良くはない。関係のない友達。無関係だからよいし、友達である意味がある。
批判
日常会話では、批判が経験的なものとなってしまう。もっと言えば、感情に基く批判になる。そうではなくて、根底にある超越論的な観点を、日常的な批判のうちで、表現する必要がある。
寝ても
寝ても起きられるようになってしまった。布団の中で次の日の仕事のことを考えて、眠りにつく。寝ては起きての繰り返しが、子供時代よりずっと安定してきているから、次の日が来ることを疑うこともできない。昔は一度眠ったら、このままずっと目が覚めなくなってしまうかもと、思っていたのに。
判断
昔は選択という言葉で表現していたことを、今は判断と言うようになった。時間が経ったなあと思う。明日からも時間が経つのかな。
哲学
今はカントやルソーについて、取り組みたい気持ち。カントであれば超越論的や批判という枠組みの普遍性を、ルソーであれば一般意志を、どう理解することができるのか、それについて読めれば、今の自分自身の状態について、大きな示唆が得られるような気がする。
でもいつも、今の自分に関係ある本を読みたいと思うから、読みがけの本ばかり増えていく。そして、訳がわからないままになった経験が増えていく。
行き当たりばったり。時間だけ過ぎる。
のぞみ
他人の話を聞いていると「それは違うだろう」と思うことがある。私の名において、理性の名において「あなたは間違えている」と、私は言うだろう。
あなたが誰かに話しかけられている時、誰の名において、その言葉は語られるか。アドバイス一つとってみても、役割の名、経験の名、個人の名といった、様々な名を考えることができる。それなのに、どうしてわたしはわたしの名において、理性の名において語るのか。
なんの名の下にひとに言葉を語るのか。わたし自身の名の下に?それは理性ではないのか。あの人やこの人に語る言葉。そこに込められている思いには普遍性はないのか。他人に対して理解可能な言葉を話すことは、それは理性ではないのか。
わたしの言葉が他人にとっても理解可能だと信じているから、その名の下に言葉を語る。実際に伝わったことは少ないにせよ。理解の可能性を完全に閉ざした状態で、どうやって言葉を話すのだろうか。
理性の意味は、理解可能性や普遍性なんじゃないかと、ひとまずはそう、思っている。
自分の言葉に普遍性があると信じる。独りよがりな信念で生きている。
文章を書くのが日課になっているのなら、思考ではなくて、詩情を伝えるためには何をしたらよいのか。
自分一人の思考が、そうではない何かになるためには。
※普遍性、理解可能、伝わるという言葉づかいでは、それぞれに意味が違っていて、ちぐはぐな感じがある。普遍性というのは、ある言葉について、誰であろうと権利上は、信じている状態で口にできるという事を言おうとしている。そして、理解可能や伝わるという言葉で表現したかったのは、ある言葉を耳にした時に、その言葉を信じている状態が、その言葉自体を媒体にして自発的に生まれる、そういったプロセスのことだ。
せつない
友人と会っても、話せないことが増えた。穏やかに迎えてくれる心づかいが、嬉しくもあり切なくもある。