馬鹿

前の記事みたいなのは、文章とは呼べない。文章とはある程度の文の集まりのことだけれど、その「程度」が1番大切だ。

文章が文章に成るためには、文章がもう何かを伝達したりしない量が必要だ。つまり、読者が文の中から、書き手の残したわずかな意味をかき集めたりしないような量が必要だ。

反対の言い方をすれば、文章は書き手から自律して、書き手に縋らずに読めるものでないといけない。

文章を読むことが、共感=空気の読み合いになってしまったら嫌だ。