のぞみ

他人の話を聞いていると「それは違うだろう」と思うことがある。私の名において、理性の名において「あなたは間違えている」と、私は言うだろう。

あなたが誰かに話しかけられている時、誰の名において、その言葉は語られるか。アドバイス一つとってみても、役割の名、経験の名、個人の名といった、様々な名を考えることができる。それなのに、どうしてわたしはわたしの名において、理性の名において語るのか。

 

なんの名の下にひとに言葉を語るのか。わたし自身の名の下に?それは理性ではないのか。あの人やこの人に語る言葉。そこに込められている思いには普遍性はないのか。他人に対して理解可能な言葉を話すことは、それは理性ではないのか。

わたしの言葉が他人にとっても理解可能だと信じているから、その名の下に言葉を語る。実際に伝わったことは少ないにせよ。理解の可能性を完全に閉ざした状態で、どうやって言葉を話すのだろうか。

理性の意味は、理解可能性や普遍性なんじゃないかと、ひとまずはそう、思っている。

自分の言葉に普遍性があると信じる。独りよがりな信念で生きている。

文章を書くのが日課になっているのなら、思考ではなくて、詩情を伝えるためには何をしたらよいのか。

自分一人の思考が、そうではない何かになるためには。

 

※普遍性、理解可能、伝わるという言葉づかいでは、それぞれに意味が違っていて、ちぐはぐな感じがある。普遍性というのは、ある言葉について、誰であろうと権利上は、信じている状態で口にできるという事を言おうとしている。そして、理解可能や伝わるという言葉で表現したかったのは、ある言葉を耳にした時に、その言葉を信じている状態が、その言葉自体を媒体にして自発的に生まれる、そういったプロセスのことだ。