潔癖症

ときおり自分を「不潔さ」に寛容だったり、支持しているかのように見せることがあるけれど、それは間違っている。例えば、電車の車両がジメジメしていたり、耳障りな音がしていると、つい下車してしまう。でも反対にほこりっぽかったりするのはあまり気にならない。

乾いた汚れには人より鈍感だけれど、湿り気や音に対しては「生理的な」判断を隠すことができずにいる。たぶんこの感覚が、他人から十分に理解されることはない。

 

「不潔さ」に寛容であるかのように振る舞うことが間違っているのは、「不潔さ/清潔さ」という基準が疑わしいからだ。実際に争われているのは清潔さの度合いや当否ではなく、個々人の「生理的感覚」のように思う。だから問題は寛容であるか否かではなく、バラバラな「生理的感覚」の間を調停することができるか否かだ。

 

単純な「不潔さ/清潔さ」の対立ではなく、複雑で捉え難い「生理的感覚」の問題として考える必要がある。

 

(同様の理由で「良し/悪し」を傘に他人の趣味に安易に口を挟むのはやめといた方がいい。このことは逆説的に、趣味について真剣に話すことの根拠にもなる。その感覚が自分自身にとって、自分で選んだというより偶然的で理解の外にあるものならば、人にむけてその感覚を話すことは必然的に真剣さを帯びる。)