楽しみを制限して楽しむ

僕の友達はおそらく、徐々にスピードを上げながらこの世の中が悪くなっているのだと思っている。例えばファミレスの無人サービスのように効率的な無駄が感性の領域を圧迫している。延々と広告を垂れ流す注文用タブレットは率直に不快だ。景気とか人口とかよくわからないけれど、閉塞感があるかもしれない。

だから彼女はOLとの二重生活を、人知れず生きている。

また別の友人にとって、この世はどうだったか。日常の些細な会話でさえ、自分の領土を主張し合うような、窮屈さがあったかもしれない。他人の幸福を望むことは、しかし、この領土を放棄することだったのだろうか。

さらに別の友人には、何が見えているのか。知らないことは知らない。

 

僕はといえば必要以上に怒り、恨み、悲しみを募らせている。しかし、それは彼女らと共有していたこの世の中への感情とは思えない。外からやってきて自分の中に蓄積された言葉、つまり単語と文が、互いに位置や距離を変え、構造を変化させていくと同時に、感情も刻一刻と変わっていく。

この内的なプロセスが、この世と僕とを切り離し、逆恨み、逆怒り、逆悲しみ、逆喜びへと向かわせる。それはとても苦しかったし、恐ろしいことだ。

 

この世を適切に生きるには、良い感情の仕方でこの世と自分を引き受けないといけない。それは、この世を効率的に"生きやすいもの"へ改良することではない。

自分自身を喜ばせられる出来事を引き受けたり、あるいは自分自身を喜ばせる仕方で出来事を引き受ける必要がある。

 

今の自分がそうできているとは思えない。さいきん新しくわかったことは、僕は恨みやすいだけでなく、喜びやすいということだ。

あれもこれも楽しい。でも、そうやって楽しむことで今までの自分をドブに捨てていないかと不安になる。何もかも楽しいというのは、何も感じていないのと同じだ。

 

子供が虫を潰して遊ぶように、何もかも楽しめてしまう。