生誕=追認

ひとは自分の生まれた時のことを覚えていない。「物心がつく」という言い方をするけれど、自分が誰であって世の中がなんであるかがわかるのはずっと先のことだった。

思えば、何もないところから誕生したということはなかった。こういう風に言うことは、つねに遅いけれども、誕生したときにはすでに世界はこうあった。

存在に加えて、様相においても遅れている。

いま私がこうであることが、いま世の中がこうであることを追認している。

 

物事を知るときに、その物事はその過去において知られる。物事を知るときに知られるのは、当の物事だけでない。とりかえしのつかなさも同時に知られる。

(もちろん知識には予想によって得られるものもある。でもそれは、未来に向けて過去を投影しているにすぎないと感じる。)

 

生きている中には、追認以外の行為も含まれているだろうけれど、追認せずに生誕することは難しい。わたしの身体も心も言葉も、衣服、家屋、財もすべて、無からの創造ではありえない。それは、循環=同じ事の繰り返しによって生まれている。