未達

仕事をしていると、ふとやらなくてはいけないことを思い出す。湧いて出たように「やらなくてはならない」気持ちが現れる。なんなら、初めに仕事を振られた時よりも強く、義務感が感じられる。それはこの「やるべきこと」が、現在よりいっそう、私の生活を決めているからだ。

翻って、義務感以外のことで、何かを「ふと思い出す」ことはあるだろうか。もちろん、自分がこれまで何を経験してきたか、全くな無知ではない。けれどもそれは、言葉にして反芻してきた記憶じゃないかと思う。そうではなくて今の情動に変化を起こすような、現実的な思い出はあるのか。

しかしながら、記憶は、今の自分自身に現実的な制限や影響、情動の変化を課さなければならないのか。このような仕方の記憶を追い求めることは、記憶を義務の方から見ること、義務が記憶に取って代わることではないのか。

 

義務としての記憶

たしかに、「ある出来事を体験したのだから、その出来事に影響されて存在しないといけない」という気持ちはある。広い視点をとれば、それは今世界で起きていることであるのは明らかだ。そして、私自身の生き方も例外ではない。

 

リアルなもの

友達と、リアルなものについて話したことがある。リアルなものとは、自分自身への違和感、そして、未達の感情なんじゃないか。

 

何かを思い出すということは、全くもって、思い通りにはいかない経験だ。

 

そういえば、昨日、ひとつのことを思い出した。冬に近づいて、肌がカサカサする。乾燥した肌に関する思い出。