3日目

今日はほとんど移動せずに過ごした。なので、書けることがない。

 

書きたいことはある。近年、哲学では「人生の意味」が熱いトピックだと知った。人と話すときに、休みの日は哲学書を読んでいると伝えると「哲学って、なんか人生の意味とかを考えたりするんでしょ」と言われることは、わりあい多い。(あとは、考えると時間がかかりそうなことや、後回しにしていい議論のことを「哲学的」と呼ぶ人が多い)でも、「人生の意味」は実際にはほとんど扱われていないトピックだと思う。

 

あれこれ書こうとすると、やっぱり勉強した方がいいわ、と思う。なので、なぜ人生の意味の哲学に興味があるのかについてのみ、メモしておく。まず、人生の意味と聞くと、あれやこれやの意味だけでなくて、なぜ人生の意味まで問わないといけないのかと思う。意味は様々な観点から問うことができるが、そもそも人生に対して、あれこれ説明したくない気分になる。また、産まれてから死ぬまでの、人生の時計の針の一周を、どうしたらぐるりと見渡すことができるのかわからない。人生を字義通りに捉えるならば、それはあまりに大きすぎて全体が見えない。そして、人生の意味を問うという行為自体に対して強いられた行為に思えてしまう部分がある。

 

ここまで、「人生の意味」についてなんとなく嫌だなと思ったことを書いた。でも、興味をそそられる理由ももちろんある。まず、多くの人と同様に僕も「自分の人生に意味ってあるんだろうか」と考えたことがある。進路に悩んだり、なかなか社会に出られなかったり、人間関係がうまくいかなかったりした時、どうしてそれ自体ではなく人生の意味を問うのか気になる。また、人生の全体像が見えないからといって自分の人生がどうでも良くなるわけではなく、むしろ部分的にしか理解できないからこそ、自分の人生に対して配慮して生活する必要があることも理解できる。自分自身への気遣いの一種として人生の意味を問うことがあり得るんじゃないかと思う。

 

無理にまとめるなら、人生の意味に対して二つの気持ちがある。人生の意味を問うことを避けたい気持ちと、むしろ切実にそれを行いたい気持ちがある。世の中には嫌でもそうするように決められていることがあるけれど、人生の意味をめぐる僕の二つの気持ちにはまだ説明できない溝があるんだよなぁと思う。